パーティーはいつか終わらなきゃ(嫌だけど)
テーマ「出会いと別れ」
ーーもしかしたら今交わした「バイバイ」が、最後の会話になるかもしれない。
友達との帰り道、ふと思う時がある。もしこれで今生の別れと言われても満足できるくらい正直な気持ちで接していられている人はどれくらいいるだろうか。数えても悲しくなるだけな気がする。
根拠なんてないのになんとなく、この瞬間が続くとどこかで確信してしまっている。「さよならなんて嫌いだ」なんて素直に言えてしまっている。喪失という感覚を知っているけど、知っているだけ。
破壊と再生、緊張と緩和、忘却と記憶、そして出会いと別れ。光あるところには影が差し、それはまた逆も然り。美しさは醜さにより相対化されている。「幸せだな〜」と感じている時、無意識かどこかで必ず、自分より不幸せな対象に眼差しを向けてしまっている。
この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ
この詩を受けて私の敬愛する詩人、戯曲家の寺山修二はこんなことを書いている。少し長いので後半部のみ。
さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と ふたりの愛は 何だろう
さよならだけが 人生ならば 建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に ともす灯りは 何だろう
さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません
始まった関係性には終わりが用意されている。それはフェードアウトかもしれないし、ブツ切りかもしれない。もしかしたら関係が切れる前に命が終わるかもしれない。そして何かが始まればそれがただ平坦に過ぎることはない。波のように寄せては返し、見当もつかない動きを見せる。
できるだけ後悔のない生き方がしたい。幸福な人生を過ごしているが、後悔は数えたらキリがない。
なるべく全ての、出会えたことを祝いたい。これはいつか終わるパーティーみたいなものだ。未来に思い出したとき、その祝祭のような美しさとあ親密さに胸が痛むような、そんな今を積み重ねたい。過ぎ去ってしまった色んなことに感謝できるような今を生きたい。波には抗えないのだから、せめて乗りこなすしかないのだろう。