砂漠とNIKE

snsが苦手すぎるのでここで文章の練習をしたい

眠たい海

テーマ:「居眠り」

 


3年間まどろんでばかりだった。気がつけば眠気にやられる日々。8時間睡眠をとってきても変わらず襲ってくる睡魔に頭を抱えたまま、その姿勢で滑らかに眠り初めていた。

 


何度も理由を考えた。自律神経がやられている、極度にロングスリーパーである、、、1番自分の中で納得していたのは「色んなことを同時にぼんやりと考えすぎるため頭がパンクしている」という理由だった。私は色んなことを数珠繋ぎに考えてしまう癖がある。何か一つ情報を与えられるとそこから様々な事象を紐付けて考えてしまう。それに頭が疲れて逃げたくなって、眠ることへ無意識が向いていくのではないか、などと思っていた。結局医者に診てもらってもいないため正確なことは分からない。いつかしっかりと眠気の原因を確かめたい。

 


以下蛇足。ワシントン・アーヴィングという小説家が1819年に書いた小説に「リップ・ヴァン・ウィンクル」という作品がある。アメリカ独立戦争が勃発して間もない頃、木こりである主人公リップは仕事に勤しんでいたある日、不思議な男たちが山奥で繰り広げている宴会を見つけ参加する。そしてそこで酒を飲み酔っ払って眠り込んでしまう。次に目が覚めた時、山から降りると街は様相を一変させていた。アメリカはすで独立を達成し親友たちは歳をとっていたのだ。リップがただ一度眠りについていた時、世界は20年の月日が過ぎていたのだ......という内容のアメリカの古典小説。

 


この小説にインスパイアを受けて作られたのが岩井俊二監督とCocco綾野剛黒木華らによる映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」だ。キャラクターがふと眠りに落ちるごとに世界が状況が一変している。不倫の濡れ衣、偽りの家族、怪しいホテルの住み込みメイド、、、社会に馴染みきれない小さな声の持ち主(黒木華)が、様々な揺らぎを通して声を取り戻していく映画。大傑作です。

 


...というように一度眠ると、以前と異なる並行世界に自分は生きているのではないかと思う時がある。何かを聞き逃したどころではなく、もはや取り返しもつかないくらいどこか別のところへ迷い込んでしまったのではないかという錯覚。寝言みたいな話だとは自覚しているが、何故かずっとそのようなことを考えてしまう。自分の人生が自分にとって正規の道に思えない。

 


また、眠りは基本的にレム睡眠ーノンレム睡眠などを波状の計測で捉えることが多い。眠りに落ちる/沈む、どこか海を表す際に用いる言葉との距離感の近さを感じる。そう、眠りにまつわる大体の事象は水のモチーフなのだ。不可逆であり渾然一体、大いなる意思には抗えないものとしての水(=川=海)。そこにモチーフが繋がる眠りに抗えないことは、仕方ないようにも思っている。世の中そんなに甘くないんだけどね......

パーティーはいつか終わらなきゃ(嫌だけど)

テーマ「出会いと別れ」

 

ーーもしかしたら今交わした「バイバイ」が、最後の会話になるかもしれない。

友達との帰り道、ふと思う時がある。もしこれで今生の別れと言われても満足できるくらい正直な気持ちで接していられている人はどれくらいいるだろうか。数えても悲しくなるだけな気がする。

 

根拠なんてないのになんとなく、この瞬間が続くとどこかで確信してしまっている。「さよならなんて嫌いだ」なんて素直に言えてしまっている。喪失という感覚を知っているけど、知っているだけ。

 

破壊と再生、緊張と緩和、忘却と記憶、そして出会いと別れ。光あるところには影が差し、それはまた逆も然り。美しさは醜さにより相対化されている。「幸せだな〜」と感じている時、無意識かどこかで必ず、自分より不幸せな対象に眼差しを向けてしまっている。

 

井伏鱒二が訳した有名な漢詩がある。

 

この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ

 

この詩を受けて私の敬愛する詩人、戯曲家の寺山修二はこんなことを書いている。少し長いので後半部のみ。

 

さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば 建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません 

 

始まった関係性には終わりが用意されている。それはフェードアウトかもしれないし、ブツ切りかもしれない。もしかしたら関係が切れる前に命が終わるかもしれない。そして何かが始まればそれがただ平坦に過ぎることはない。波のように寄せては返し、見当もつかない動きを見せる。

 

できるだけ後悔のない生き方がしたい。幸福な人生を過ごしているが、後悔は数えたらキリがない。

なるべく全ての、出会えたことを祝いたい。これはいつか終わるパーティーみたいなものだ。未来に思い出したとき、その祝祭のような美しさとあ親密さに胸が痛むような、そんな今を積み重ねたい。過ぎ去ってしまった色んなことに感謝できるような今を生きたい。波には抗えないのだから、せめて乗りこなすしかないのだろう。

 

 

 

文章を書くこと

「言葉は真実を映さない」小袋成彬の歌詞内に出てくる一説だ。

指先と頭を動かすだけで人を変えられるなんて、信じられない。しかし、私たちの人生ではたまにそういうことが実際に起きたりする。人に影響を与えることの素晴らしさと恐ろしさ、その祝福=罪性については考えているがキリがないとも思っている。人は生きている限り誰かに何かを与えられることで生きており、それは止まることない円環であってそれ以上でも以下でもないのだろう。

 

写真のレタッチをする時に、私はアマチュアだから明確なデータでの認識や確率したプリセットがない(意図的に避けているところもあるが)。もしも写真を褒めてくれる人がいたなら、それは浅い知識と深い愛による賜物だと思っている(これも言葉にした途端に陳腐ですね)。

 

文章を楽しむ原体験が手紙や交換ノートだったため、二人称の文章ばかりが得意になって三人以上に開かれ文があまり得意ではない。短い文章も。だからここではあえてそれらを行なってみる。上手になれたらいいなぁ。